Sigma
2012年
アメリカから帰国して2年が経ち、中学受験が控えている年だった。周りが小学生として最後の自由を謳歌する中で、中々塾で模試の成績が出ずに私は苦しんでいた。アメリカ時代に楽しんでいたピアノやヴィオラという習い事は全て辞めても時間のなさに苦しめられた。
しかし念願の私立の中学に合格した。塾では落ちこぼれ扱いだったが、志望校5校のうち4校合格の大逆転劇だった。
2013年
一年目は自分と同じ帰国子女ばかりのクラスで馴染めたが、二年目からは大きなクラスに移されるシステムだった。そこで初めて日本でずっと育ってきた同学年の人や、日本の学校にありがちな「部活ヒエアルキー」に馴染めずにいた。当時マイナーだった山岳部の副部長を務めていた上に帰国子女だった私は、いじめられはしないものの変わり者扱いされて肩身が狭かった。
2014年
二年生と同じクラスを引き継ぐ三年生では日本の教育システムに疑念を抱くようになり、自分が馴染めずにいることに気がついた。今思えば反抗期がなかった私は親ではなく、学校に対して反抗していたのかもしれない。そんな私の父に二度目の海外転勤の話が出た。インドという知らない土地だったが、そこは三蔵法師にとっての天竺のように私の目には映り、学校を辞めて父についていく決断をした。
2015年
インドでの暮らしはとにかく異質: 治安が良くないため、父の会社の手当で高級ホテルに住んでいた。専属ドライバー付きの車で移動した。その一方で、ホテルや車の窓を隔てた景色には常にスラム街や物乞いの人たちが含まれていた。
2016年
学校はインターナショナルスクールで私のような外国人の駐在員の子供ばかりだった。初めて自分の居場所を見つけて、アメリカ人とも日本人とも違う自分を育てることができると思えた。だからこそ、世界でも数%しか履修できないIBDPという大学入学認定資格に挑戦する決断をできた。
2017-2018年
この二年間はひたすらIBDPに打ち込んだ。六科目を二年間学び続け、その内容を二年の最後にある試験で全ての結果が決まるというプレッシャーを常に味わっていた。この結果で行ける大学も決まる。さらに課外活動も150時間以上が必須: インドでのボランティア、ヨルダンでのジャスバンド遠征や模擬国連のシンガポール会議参加などに取り組んだ。
気づけばIBDPでもバイリンガル資格を取得し、日本の大学に進学することになった。
2019年
海外の大学にも進学する選択肢があった中での日本の大学という選択だった。日本という、かつては自分を認めてくれなかった舞台の中で、グローバルな存在となった今は何をできるか試したかった。弓道を新たに始め、バイトもウェイターや塾講師を経験した。
2020年
友人の伝手で知り合いを紹介してもらい、かつて私が取得したIBDPを目指す生徒を家庭教師として教えることとなった。日本にずっといながら海外大学へ羽ばたきたいという彼の姿は、私とは逆の立場でありながらも似たものを感じた。週4回、私はつきっきりで彼を指導した。
コロナ禍前最後の冬に、親友と北欧旅行へ行った。思えばこれが私にとっての卒業旅行となった。
2021年
コロナ禍の不安が世界で渦巻く中、元々環境適応能力があった私はすぐに新しい環境に慣れた。リモート式の授業でも好成績を維持し、家庭教師を担当していた生徒が無事海外の大学へ進学させられた。
2022年
大学生活は全て順調で、高校までの苦難を乗り越えた私は就職活動で怖いものはないと考えていた。
しかしそれは間違っていた。周りが既に行きたい業界を決める中で、私は様々な道に興味が出てしまい、結局なかなか会社が決まらずにいた。
夏になっても秋になっても、周りがとうの昔に就活を辞めた時期でも私は内定がない自分に焦りを感じていた。しかし、初めて両親に心から頼るようになり、周りの友人からも励まされて力をもらえた。
結果的に16業界61社という数を受け続け、9月中旬に最後の4社から連続で内定を頂けた。
そんな中で久しぶりにできた恋人と私は別れることになった。最後まで試練が与えられた年だった。
これからの夢
今までは日本と海外は私にとって別世界で、人生の節目を分ける空間だった。ただ、入社する企業は日本の会社でありながら世界を舞台に活躍できる場所であり、今までの苦労も培った経験も全て活かせる環境が整っている。
この10年、私は常に激しい変化を味わってきたものの、その中で多くの人とそれぞれの考え方に出会い、支えられてきた。
これからの10年はさらに苦しみながらも面白い経験を積んで、いつかは世界のどこかで大切な誰かを支えられる大人になりたいと思っている。